三十郎の日々


二六六五年八月二五日

 米国の日本支配の実態を示すものとして年次改革要望書というものがある。
 「拒否できない日本(関岡英之 著)」という書籍で紹介されてから広く知られるようになり、拙者もその本で知った。
 この年次改革要望書は在日アメリカ大使館のサイトで、御丁寧にも日本語に訳されて公開されている。
 日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府の年次改革要望書
 日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書
 謀略的にはこれをこう解釈する。
 「米国政府は、まずは日本が米国から自立することを望み、それができないのであれば日本が経済的に米国を支えることを望んでいる」とな。
 これを読んで直情的に反米意識を持つ者は、その時点で米国の策に乗せられているといえよう。
 考えてもみよ。何ゆえ、このような日本人(ただし「奴隷」でない者)の反感を煽る文書をわざわざ日本語に訳して公開しているのかということをな。
 「日本人をわざと怒らせるようなことをしている」ことの裏を読めば答えは簡単だ。
 米国政府はこれをもって二択を突きつけているのだ。
 「こういう要求が嫌なら自立せよ。自立できないならば経済奴隷として搾取されても仕方がないぞ」とな。
 そして、それは日本にとってもどちらかを選択せねばならぬことだ。
 日本は軍事と外交を米国に依存している。
 だが、その米国の覇権は永遠ではない。むしろ先が見えている。
 米国が衰退した際、日本が軍事と外交において自立していなければ、その先にあるのは亡国のみ。
 自立する覚悟が無いのであれば、できるだけ米国を延命するために「奉仕」するのもやむをえないというものだ。

 日本自立を促す米国の意図自体は複数考えられる。
 それは「軍事的負担低減のための西太平洋地域からの撤退」かもしれぬし「西太平洋地域の米軍の侵攻部隊化」かもしれぬ。
 だが、自立か隷属かの二択自体は米国の意図に関わらず選択せねばならぬこと。
 大切なのは、こういう要望書の有る無しに関わらず「日本のことは日本で決める」という気概だ。日本の政策は(こういう外国の策略の有無に関わらず)国益と国民益を勘案して日本人自身が決めるべきことだ。
 日本が自立して巧みに(軍事的バランスを維持しつつ)外交を行えば、西太平洋における軍事態勢においても必ずしも日本が単独でシーレーン防衛を行う必要はなく、東南亜細亜、露西亜、印度(上手くすれば、台湾、中国とも)と共同防共することができるであろう。(「米国の政策により生じる軍事的空白を日本で埋めるか否か」以外にも道があるということだ)
 中国とも軍事的緊張関係を維持しつつ経済的友好国となれるであろう。
 そして、それこそ「善隣友好、共同防共、経済提携」というものだ。
 それができるかどうかは日本人次第。

 小泉政権は「隷属」路線を選択したようだが、それを支持するかどうかは日本人次第。
 次の選挙の表の主題は「郵政改革の是非」だが、裏の主題は「対米隷属か対米自立か」だ。
 外資自体は小泉自民型郵政改革により流れる金欲しさに小泉支持のメディア操作に邁進しているが、その選択自体は国民の手に委ねられている。


二六六五年八月二一日

一つ目

 よく指摘されることだが民主主義の欠点は「扇動の上手い者が権力を持つこと」だ。
 だが、これには前提条件がつく。「民衆の多くが扇動されやすい場合」というな。
 要は、選挙民が扇動に乗せられず、客観的事実から論理的に判断して投票するようになれば、その欠点を克服できるということでござるよ。
 さて、小泉郵政自爆選挙と相成ったわけでござるが、聞いた話ではテレビでは小泉自民翼賛体勢だそうな。
 なんでも討論番組の司会が小泉独裁自民党(自民党内の派閥潰しの結果、事実上こういってもよかろう)に都合の悪い発言を一方的に遮ったり、自民党を批判する者を複数の者で反論発言を封じて一方的に批判して吊し上げ状態にしたりするという。
 まあ、テレビ局が小泉独裁自民党の方に論理的正当性があるかのように宣伝するための機関となりはてているというわけだ。
 これは小泉独裁自民党を支持している連中(郵政民営化での受益者である外資や保険会社などで番組のスポンサーでもある)が「国民の多くはテレビで露骨な政治宣伝を見ても、それを鵜呑みにして扇動される程度の愚民」と思っている証左だな。
 まったく莫迦にされたものでござるよ。もっとも小泉が首相になったときは実際に国民の多くが扇動されてしまったわけだが。(小泉が橋本政権時代に曝した口先ぶりやご都合主義ぶりなど、政治に無関心な者は知らなかったのであろうな)
 前の選挙では、いかに国民の多くが「騙されやすく扇動されやすい愚民」かをマスコミ主導の「小泉効果」で示してしまったわけで、現代の日本人の程度を示すみっともない話であったわけだが、次の選挙は国民の多くが「騙されてもそれが解らずにさらに騙され続ける愚民」かを問われるというわけだ。
 どう答えるかは選挙民である国民次第。
 投票権のある人はすべからくよくよく考えて投票してほしいものでござるよ。
 投票率が半数をきる場合は、「国民の大半は投票さえしない愚民」ともなるわけであるし。
 棄権は少数勢力の組織票を有利にするのみだ。

二つ目

 拙者の基本スタンスはマジな態度でボケることで読者のツッコミを誘いギャグとするインチキ右翼の電波右翼なわけだが、宗教右翼に電波の強さで負けていると思うことしきりでござるよ。
 いや本当に。
 いかに拙者でも軍国主義時代の日本の悪行までは美化できぬ。
 やむをえない状況であったとしても悪行は悪行。事実は事実として受け入れるべきものと思ってしまうが、宗教右翼の連中は都合の悪い情報はシャットアウトして、それをやってしまうわけだからな。
 保守派にとって「バランス型保守政党」であった自民党もカルトに浸透されて今では宗教右翼政党。今や政教分離を唱える自民党議員が干される(選挙で落とされたので元議員か)始末。
 公明党はよく宗教政党と批判されるが、自民党も国家神道に法華宗系カルトに統一協会と宗教連合を支持母体とする宗教政党。同じ穴の狢というもの。
 (自民党が野党落ちして細川政権が成立したときに統一協会批判報道がされたのも、あれは自民党と統一協会のつながりの深さを示すものであったわけだな。)
 批判されぬのは、情報統制によりそれが大手一般メディアでは報道されず国民の多くが知らぬ状況になっているからというもの。
 実際、カルト連合である日本会議の存在や日本会議とつくる会の関係など多くの国民は知らぬ。
 自民党に追い込まれた結果ようやくの決起ではあるものの亀井氏の国民新党立ち上げは評価したいところでござるが、自民党に在籍していた以上、亀井氏もカルト関係のイベントに出席していたりするわけで、現状、支持するには気が引ける。
 これで自民党のカルト癒着体勢の暴露とカルトとの訣別を宣誓してくれるのであれば支持する気にもなるのだが。
 まあ、小泉独裁自民に反感を持つ保守勢力の受け皿にはなるであろうとは思う。

 日本共産党は党中央がかなり胡散臭いが、この際、共産党をある程度の範囲で支持するのもバランスの範囲とも思ってしまう。社会保障政策も魅力的だしな。
 宗教右翼がここまで政治に浸透している以上、カルトへの対立勢力として共産党は有用というもの。
 「毒をもって毒を制す」というわけでござるよ。
 ただし、「共産党が野党でいる限り」という条件付きでござるが。
 共産主義が政権をとるとろくなことにならぬというのは歴史が証明している。
 いかに理想が崇高であろうと人間の本性と相容れなければ、それは地獄を生む。
 共産主義にしても宗教にしてもな。
 歴史が証明するように人間の本性とは善悪抜きに「そういうもの」なのだ。


二六六五年八月八日

一つ目

 偽右翼だの偽保守だの言っているが、それに対して拙者はどうなのだと問われた。
 答えよう。拙者がどうかといえばインチキ右翼でござるよ。
 もともとは筆者が近代日本の思想研究の途上で思いついたネタキャラ。
 元々は独善的ではあっても弱者の味方となり弱者救済の理想を掲げる戦前の右翼を戯画化してマジボケしてみようという企画でしかなかった。
 それがネット右翼は偽保守だのと主張しているのは、ネット右翼のやっていることが弱者救済ではなく弱者叩きであり、金権腐敗政治打倒ではなく金権腐敗政治追従だからだ。
 そこには二二六の時代に国民から支持されたような弱者の味方としての右翼の姿は無い。
 ゆえに伝統的な右翼思想の立場からネット右翼批判を行うのだ。

二つ目

 このサイトへの反応に当惑させられることがある。
 このサイトに肯定的な言葉を頂いたときだ。いや、肯定的な言葉自体は嬉しいのだが、問題となるのはそれがボケということを理解した上での反応ではなく、裏読みせずに素直に受け取ってしまっている場合だ。
 当惑するのは、その人がボケの内容を信じてしまうような騙されやすい純朴な人なのか、ボケと解らず筆者を「頭のかわいそうな人」と思いつつ追従をいっているのか判断に困るからだ。
 前者の場合も後者の場合も拙者としては非常に気まずいわけでござるよ。うああ。
 否定的な言葉や攻撃はまあ良いのだ。覚悟しているし。

三つ目

 煽動されただけのネット右翼は、概ね自分が「自虐史観の洗脳が解けた」と思い込んでいる。しかしそれは「洗脳が解けた」という洗脳に引っかかっているにすぎない。
 自分の頭で考えられる普通に批判精神を持っている人は小賢しい教師が歴史を思想教育に用いようと自虐史観にも皇国史観にも引っかかったりしないものだ。
 普通の人はそのような思想教育を見透かし、歴史上の事実を事実として受け入れられる。
 しかし、人間には一定の割合で洗脳されやすい者もいるわけで、かくして、思想教育で洗脳されるような人間もいれば、「思想教育による洗脳が解けた」と逆に洗脳されてしまうような人間もでてくると。
 性質(たち)が悪いのは自分が「洗脳が解けた」と思い込んでいる者で、事実に基づいた歴史評価を受け入れられず、それを洗脳教育の所為とし、やたら「まだ洗脳にかかっていると認識した人」に対し罵倒を行う。
 しかも、それは彼らなりの善意ともいう。罵倒に立腹して対抗するために歴史を調べれば彼らと同様な「歴史の真実」に行き着くと思っているわけだ。巨大なお世話というものだな。
 彼らは自分が容易く思想教育による洗脳に引っかかるような人間だからといって、他人もそうだと思っているのだろうか?だとすれば、他人も自分と同程度かそれ以下に莫迦と思っている莫迦に過ぎない。(ありそうな話だ。しばしば自分を賢いと思い込んでいる莫迦もいるしな。「自分は洗脳から解けた賢い人間」という幻想に酔っているのであろう。ゆえに尊大な者が多いのであろうな。拙者は自分の愚かさを知っているので、その分、用心深くするようにしているし、普通の人も自らを過信するようなことはしない)
 まあ、ネット右翼運動はこれから先、縮小していくであろう。
 何故ならば、ネット右翼の実態への研究が進むにつれ、ネット右翼をやっている者イコール煽動に乗せられ易い愚か者もしくは煽動を目論む工作員という認識が広まるであろうからだ。
 煽動されてネット右翼となった者は自分が騙されたと気づけば、ネット右翼をやめるであろう。自分が騙されやすい愚か者という事実を認めたくないがゆえにより深くネット右翼思想に染まっていく者もいるであろうがな。
 人間の愚かさに絶望させられることは多いが、その程度には拙者は人間の知性に希望を持っている。


二六六五年八月三日

 (日本改造法案の)国家社会主義と共産主義の違いとは何か?
 財産に関しては、共産主義が私有財産を否定し全てを共有財産としているのに対し、国家社会主義は私有財産に上限を設けているところ。まあ、私有財産制限といっても当時と今では物価が千倍以上違うので当時の百万円は今の十億円以上だったりするので、庶民にはほぼ関係ないな。
 国体に関しては、共産主義が天皇制否定に対し、国家社会主義は象徴天皇制。
 日本改造法案自体は北一輝が資本主義と共産主義の両方を批判した上で、それを上回るものとして考えたものであるわけで、両者の問題点の克服を試みようとしているところが長所だな。
 問題はいかんせん時代もあってすこぶる軍国主義的なこと。
 クーデターによる国家改造の肯定、資源獲得のための軍事的手段による領土拡大の肯定と、当時はともかく今の世にはそぐわぬ考え方だ。
 (石橋湛山は国家社会主義や共産主義の抱える問題を、その誕生の背景を含め、評論の中で述べていたが、独善に陥らず社会全体をより客観視できていたわけで、思想家としては北一輝より石橋湛山の方が上だったと拙者は思うでござるよ)

 さりとて、国家社会主義が戦後日本を形作った人々に与えた影響は大。例えば岸信介も北一輝の書の影響を強く受けた人間の一人だ。(拙者自身は日本を米国に売ったかのように見える岸信介をさして好かぬが、彼が戦後日本のシステム構築に果たした役割の大きさも認識している。人には功罪があるものだ)
 それもあってか、戦後日本の資本主義は国家社会主義のよい部分を上手く取り入れているかのように見える。
 華族といった特権階級の廃止や財閥の解体により既得権や資本力による政治的影響力を下げることによる金権腐敗政治防止、(私有財産制限よりスマートな)累進課税強化や贅沢品への物品税による貧富差拡大防止策とその税収を利用した公共投資による社会資本整備、義務教育制度の強化、年金や生活保護といった社会的弱者救済政策の拡充と、拙者にはあたかも国家社会主義の良い面を上手く消化して取り入れたかに見えるのが日本型資本主義などの戦後日本のシステム。
 まあ、なんだな。右翼思想にも左翼思想にも良い部分もあれば悪い部分もある。
 そして、そういう思想の良い部分を上手く取り入れたのが戦後日本型システムというものだったのであろうな。日本型資本主義が最も成功した社会主義と言われることがある所以というものかもしれぬ。
 戦後、好調だった日本経済がおかしくなりはじめたのは、消費税の導入と物品税の廃止、累進課税を緩やかにする所得税率の改変というように良く出来たシステムを改悪し始めたころ(およそ西暦1990年代)であったろうか。
 これは全体の利益を考えて上手く作られたシステムを、一部の拝金主義者が自己の利益が増えるように作り変えた結果、全体の低迷を招いたものといえるかもしれぬ。
 もっとも当時は日本型資本主義自体がゼネコンへのバラマキ等、既得権にぶら下がった連中により歪みはじめていたわけで、そういう既得権勢力の解体が求められていた時期でもあった。
 既得権勢力の私欲による日本経済の「動脈硬化」も低迷の原因の一つであろうし、原因を単純に戦後日本型システムの改悪によるものとするのは間違いというものであろう。
 しかし、橋本増税のように税制改悪が日本経済回復の芽を摘んだ実例もあるわけだし、税制等改悪されたシステムに関しては1980年代以前のものに戻した方が日本経済回復には余程良いと拙者は思う。
 政治家が既得権との絡みで制度の改良ではなく改悪しかできぬのであれば、改悪と原状回復では原状回復の方がマシというものだ。

補記:
 自民党を潰すといった小泉が支持を得られたのは、既得権勢力の利益代表である自民党の解体を国民が望んでいたからというものであろう。
 度重なる制度改悪と既得権勢力の日本経済への寄生に庶民はうんざりしていた。
 だが、実際に小泉のやったことといえば、さらなる制度改悪と既得権の固定化でしかなかった。
 金権腐敗政治の側に立つ偽保守は一時的には人気を得られても最終的には大衆の支持を得ることはできない。
 マクロ的に見れば大衆は愚かではあっても莫迦ではないからだ。騙されやすくても騙されたこと自体には気づけるのだ。
 そして、民主主義が機能していれば大衆の支持を得られない勢力は滅びる。  ゆえに、我々はまず民主主義の機能を守らねばならぬ。  具体的には戦前の治安維持法のように言論弾圧につながる可能性のある立法を阻止することが挙げられる。

補記の二:
 我々一人一人が恐れるべきことは、不正義に対して報復を恐れて言論を自粛することだ。
 報復を恐れて不正義を黙認したとき、人は結果的に不正義の側に身を置くこととなる。
 不正義に対して挑めば、我々は報復により被害を被るかもしれぬ。
 不正義を黙認すればそのときだけは助かるかもしれぬ。
 しかし不正義を黙認することによる社会の腐敗は、結果として不正義に挑んだときの幾倍もの被害を生むこととなろう。
 例えば、世界を戦争に向かって誘導せんとする連中の不正義に挑めば数十・数百といった犠牲を覚悟せねばならぬかもしれぬが、一度(ひとたび)戦争がおこれば犠牲は幾千・幾万を軽く上回る。
 自分さえ助かればいいと不正義を黙認するのは現実主義ではなく卑劣な現状追認主義に過ぎない。
 自らが犠牲になることも覚悟して不正義に挑むことこそが、不正義に対抗する際の現実主義なのだ。


二六六五年七月三〇日

 宗教右翼連中が中心となって流布していると思われる共産主義陰謀論にはもう飽き飽きだ。
 先の大戦における日米戦争はコミンテルンの陰謀、弾道ミサイル防衛構想に反対する人が多いのは左翼ネットワークの陰謀、つくる会の教科書が受け入れられないのも左翼ネットワークの陰謀、首相靖国参拝に反対する人が増えているのも左翼ネットワークの陰謀と、はっきりいって荒唐無稽。まるで「何々は神の教えに背く悪魔であり、悪魔の言うことに耳を傾けてはいけない」といった感じのカルトの論法だな。まあ、宗教右翼はカルトなわけだが。(それでもって、それは「悪いのは米国ではなくて共産主義なのだよ」という米国の欺瞞工作とも思われる。実際、CIAはカルトをよく利用するしな)
 正直言って共産主義がそれほど謀略と世論工作に長けておれば、日本で共産党が与党でもいいものであろうに。
 現実世界において共産主義が絶滅寸前という事実がこのような陰謀論を否定しているな。
 とりあえず、今回触れたものだけでも解説しておこうか。
 先の大戦における日米戦争の原因は日中戦争における日本の南下に伴う日本と米英との関係悪化にあり、それ自体は中国を甘く見すぎてずるずると泥沼にはまった我が国の非。
 弾道ミサイル防衛に反対する人が多いのは、現時点の弾道ミサイル防衛は金食い虫な上に役立たずだから。
 つくる会の教科書の採択率が低いのは、その内容がどうしようもないから。
 首相靖国参拝に反対する人が増えているのは、それによる外交関係の悪化が肌身で感じられるから。
 まあ、なんだな。自ら墓穴を掘っているのに、陰謀論を唱えてその責任を他に擦り付けるのも恥であれば、仮に謀略があったとしてもそれにあっさり嵌ってしまうのも恥だな。偽保守連中は余程の恥知らずと見える。

 この手の共産主義陰謀論の日本での始まりは、いわゆる近衛上奏文あたりであろうか。
 ばりばり国家社会主義の皇道派ならともかく、無定見で皇道派と対立していた統制派を「赤色革命を目指す共産主義者」と考えているあたり、相当痛い陰謀論だ。
 「之ヲ右翼トイフモ可、左翼トイフモ可ナリ、所謂右翼ハ國體ノ衣ヲ着ケタル共産主義者ナリ(これを右翼というも可、左翼というも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)」というあたり、近衛公は国家社会主義と共産主義の区別もついていなかったと思われるし、人の求めるものを理解する能力も無かったのであろう。
 右にしても左にしても自らの信条に沿った社会正義の実現を目指しているわけだし、弱者救済という社会正義の前には右も左も無いということを、常に上から人を見下ろすことしかしない弱者の視点を持たぬ者には理解できなかったのかもしれぬな。
 当時、左翼から右翼に転向する人が多かったのも、社会正義を実現するにあたってどちらが現実的手法かということもあったであろうに。
 金権腐敗政治打倒、弱者救済などは右にも左にも共通する社会正義。「弱者救済イコール左翼イコール国体の敵イコール反日」という貧弱な思考は当時の「君側の奸」(皮肉でござるよ)にも今のネット右翼にも共通しているようだな。やれやれでござるよ。
 (「転向者」を用いた共産主義の陰謀の存在を信ずるのであれば、石原もナベツネも左翼からの転向者であるわけだから、偽保守からしてみれば排除すべき存在ということになるのではなかろうかと思うのだが)

補記:
 右翼の国家社会主義の基本といえば北一輝の日本改造法案であろう。
 読めば解ると思うが、この日本改造法案、独善的と思われても仕方ない面もあるが弱者への愛に満ち溢れている。
 二二六事件で決起した陸軍皇道派の青年将校達もこの弱者救済の理想に心酔していた。軍事クーデターという暴力的手段に訴えたことは誤りというものだが、当時の過大な貧富の差と華族などの特権階級の存在は社会正義に著しく反するものであったと拙者も思う。
 結局のところ、右も左も自らの信条に沿った社会正義の実現を目指しているわけだし、弱者救済は右にも左にも共通する社会正義の構成要素なわけだ。
 逆にいえば、今の政府の弱者切捨政策に賛同するような連中は保守にあらざる偽保守ということだな。
 ネット右翼ら偽保守は彼ら自身の行動こそ事実上反日的であることを差し置いて意に沿わぬ者を反日と罵る。
 しかし、それは分析ではなく、いくつかの特徴から勝手なレッテルを貼って考える手間を省くだけのステロタイプ化による思考停止に過ぎない。
 右には右なりの、左には左なりの理想があり、右も左も概ね自らの信条に沿って社会正義を主張しているに過ぎぬ。
 そして、共通する社会正義の実現という観点からは右も左もない。例えば共謀罪のような悪法に対しては、共謀罪成立阻止という社会正義の実現のために右も左も手を組むことができるというものだ。


二六六五年七月二四日

日本人の敵は偽保守日本人

 我等の祖先が掲げた東亜新秩序は善隣友好、共同防共、経済提携を意味していた。
 しかし、現実には先の大戦において我が国は掲げた大義に背き欧米列強同様に帝国主義の道を歩み亜細亜に対し申し訳ないことをしてしまった。
 我が国には石橋湛山が示したように自ら帝国主義を捨てる道もあったというのに。
 帝国主義のもと大陸に侵攻するよりも、自ら帝国主義を捨てて台湾と朝鮮を独立させ通商国家として活動した方が良いという石橋湛山の小日本主義の正当性は戦後の日本の繁栄を見れば明らかなことだ。
 日本はかつて帝国主義の道を行くか帝国主義を捨てる道を行くかという大きな分岐点において道を誤ったのだ。
 そして、道を誤らねば侵攻した亜細亜諸国に申し訳ないことをすることも多大な犠牲を強いることもなかったであろう。

 「聖戦」の実態は酷いものであった。
 欧米の植民地支配の打破という天下の大利を大義名分としながら、実際の目標は日本の領土拡大という国家エゴイズム丸出しのものであった。
 穴だらけの戦争計画の結果である前線における軍紀の崩壊も酷いものであった。
 貧弱な兵站は前線を支えることが儘ならず、現地調達という略奪行為をせざるをえなかった。食料の欠乏はときには生存のために人肉食を強いることもあった。
 自軍の将兵すら食料に困る状況では捕虜を養えるわけも無く、殺すしかないこともあった。
 天孫民族選民思想による民族差別意識に酔った兵や血と復讐心に狂った兵は、無関係な民間人にも暴行、略奪、殺害を行った。
 まこと、先の大戦において軍紀が崩壊していた地域での日本軍の蛮行は恥ずべきことだ。
 だが、恥だからといって公然の事実を隠蔽しようとすることは恥の上塗りというもの。
 あったことを無かったこととしてしらばっくれる方が卑劣で不名誉な行いだ。
 真っ当な人は自らの誇りを取り戻すために自らの非を認め、その非を改めるものだ。
 臆病な人が自らの非を認めず、ひたすら自らを正当化して、事実から逃げるのだ。そして、その様は傍から見れば無様で恥知らずで醜悪でしかない。

 我が国の歴史の恥ずべき部分をこのように書くのは拙者とて本意ではない。
 だが、それをあえて書くのは、我が国の歴史の恥ずべき部分を居直って無きものにせんとする「日本会議」とその下部組織である「つくる会」の所業が目に余るからだ。
 日本会議系列の組織による歴史の歪曲は、我々が客観的な歴史から教訓を得る機会を奪うだけではなく、諸国との関係を悪化させ国益を大きく損なっている。得られるものはといえば、日本会議系列言論人やその煽動に乗った者の虚栄心が満たされるぐらいのものだ。
 彼らは自分たちの自己満足のために改変した歴史を広めることで、結果として戦後日本が一貫して貫いてきた国連(連合国)重視国際協調主義を破壊しつつある。
 彼らは平和主義や国際協調を唱える日本人に対し勝手なレッテルを貼って一方的に日本人の敵と呼ぶが、拙者に言わせれば彼らこそ、無用に怒りと憎しみを煽り国家間の緊張を高めて平和を損ない、国家間の関係が良好であれば資源輸入や通商で本来得られたはずの利益を損なう日本人の敵。
 だいたい、保守とは伝統を尊ぶものの筈なのに、米国に与して日本の伝統を破壊し、日本社会を米国流に作り変えようとする彼らの方がよほど革新というもので、彼らが保守を名乗ること自体がおかしいことというものだ。

 まあ、ここでうだうだ文句を言ってもしょうがないというもの。
 続いて、彼らの煽動を大幅に無力化できる策について記述しようと思う。
 策の一つは公の情報から彼らの宗教人脈を誰にでも解るように説明すること。
 例えば石原は霊友会の信者であるし、安倍が評判の良くない新興宗教の会合に度々出席していることは、フリージャーナリスト山岡俊介氏の「ストレイドッグ」などで追求されている。「カマヤンの虚業日記」では宗教右翼関連の纏まった情報が紹介されている。
 宗教右翼と偽保守の関連性をウェブサイト上で公開されている人間関係や組織関係から説明することは、偽保守の煽動サイトに感化されただけのネット右翼を洗脳から解く高い効果ができるだろう。
 宗教右翼と偽保守の関連性を知ったからかどうかは解らぬが、現実に「つくる会」に賛同する人の数は減少傾向で、「つくる会」は宗教動員で数の減少を補っているのが実態だ。(参考)
 あるいは、産経と統一協会との関係を説明するのもよいだろう。産経に記事を載せている人間の(統一協会の機関紙である)世界日報への寄稿状況などから容易に説明可能だしな。
 嫌韓を煽る偽保守にしてみれば韓国の宗教である統一協会が裏で日本の言論人とつるんでいることは、本来許しがたい筈。(つまり、これには嫌韓を煽る偽保守が統一協会側工作員か只の煽動された差別主義者かを区別する踏み絵としての効果も期待できるということだな。)
 もう一つの策は民族差別を煽る偽保守の欺瞞性を説明すること。
 例えば、岸信介と韓国軍事独裁政権との関係が挙げられよう。(参考)
 岸信介と韓国軍事独裁政権とは親密な関係があったが、その韓国軍事独裁政権が反日教育を行い、岸信介の孫の安倍が嫌半島を煽る。日本と韓国で「保守」どうしが親密な関係を持ちながら、日本では嫌韓を煽り、韓国では反日を煽る欺瞞。そして、それに乗せられる莫迦らしさを説明することは煽動されただけのネット右翼の頭を冷やす効果が期待できる。
(盧武鉉は気の毒というものだ。日韓友好を望んでいるのに、日本で偽保守が煽る嫌韓と韓国で軍事独裁政権の残党が煽る反日の板ばさみにあっていてな。参考)
 自民党、日本会議、統一協会、KCIA、ロックフェラー等の関係を周知することは、ネット右翼に限らず煽動されやすい一般国民を啓蒙する上でも重要なことといえよう。現状、日本会議や統一協会の実態に関して大手マスコミが報道しない以上、この手の情報を広めるにはネットで知らしめるのが最も有効だ。


二六六五年七月一七日

ネット右翼など偽保守の一部は宗教右翼工作員かもしれない

 伝統的な保守思想とは何か?
 我等の祖先は不平等条約に対しては独立主権の拡張を、人種差別に対しては人種差別の廃止と人種平等の理想を掲げた。
 然るに今日のネット右翼、あるいは石原、安倍、西村といった保守を自任する連中らの言動はいかがなものであろうか。
 独立主権の拡張どころか、経済だけでなく軍事においてまで我が国の米国の属国化を推進し隷属する一方、平然と民族蔑視を主張する。
 保守とは祖先よりの伝統を尊ぶ者の筈。だが、公然と差別を行う姿は我等の祖先の掲げた理想に反している。
 伝統的な保守思想に反するその姿は拙者に言わせれば偽保守と言わざるをえない。
 その一方、彼らの主張はいくつかの右翼的宗教団体の歴史観と重なる。
 「生長の家」、「念法眞教」などがそれだ。
 そして、それらの宗教団体が「神道政治連盟」や「日本会議」といった組織を通じて、政治に影響力を持つのはサイトの紹介文から読み取れる人物関係から自明の理。
 拙者、創価学会と公明党の関係が政教分離の観点から批判されるのは当然のことと思うが、「神道政治連盟」と安倍の関係、「日本会議」と西村の関係、統一協会と勝共議員の関係も同様に批判されるべきであろうと思う。
 我が国はスパイ天国であると同時にカルト天国でもある。
 仏蘭西で反カルト法で破壊的カルトと認定されている創価学会は公明党として連立与党を構成しているし、同じく統一協会はあれだけの報道がなされたのに未だに若者を中心に信者数を増やし続けているという。
 政教分離の徹底は勿論のことだが、独逸や仏蘭西と同じように反カルト法などの体制を整備してカルト対策を徹底すべきと思う。
 我が国の法体制は次々と悪しき方向に作りかえられている。
 共謀罪のような人権を著しく後退させる無茶な立法がまかり通りつつある一方、カルト犯罪が現に発生していても反カルト法のような多くの国民の幸福につながる法律が立法されない現状は異常としかいいようがない。
 だが、それらの立法は選挙の上で選ばれた議員たちによって為されているのだ。
 東京都議選では宗教政党の候補が全員当選していたが、そのような宗教人口は人口比で少ない以上、国民の多くが投票権を行使していればそのようなことにはならなかったであろう。
 国民の政治的無関心こそがそのような宗教政党の躍進につながっているのだ。
 我々は選挙という方法で我々の意思を示すべきだし、それをせぬのなら、それはかの悲惨な戦争の末にようやく手にした国民主権を自ら手放すことと同等といえよう。

P.S.
 拙者、今回、名前がでてきたものを含め、宗教団体を嫌がらせや暴行で排除することには反対でござる。
 我が国は基本的人権のある民主主義国家。問題の解決は法と言論とその正当性に基づいた判断の結果なされるべきものであり、暴力的手段によることには原則反対だ。
 なお、一部の賢しいカルトは暴力団を雇って自作自演で嫌がらせや暴行を行い、「このような言論の影響で被害を受けた」と主張して起訴することで対抗言論を封じたりしようとするということを付け加えておこう。
 もし何者かによってそのようなことがおこれば、その者はカルトの手先かいかなる信念があろうとカルトの手先も同然の者と拙者は考える。


二六六五年七月一六日

伝統の美点と迷信

 我が国の習俗を客観的に観察すると、長い歴史の中で培われた伝統の中には美点も多い。その一方、能率を下げるだけの様々な迷信も潜んでいる。
 仏滅や友引などで縁起を気にするのも迷信だし、ビルや住宅の建設の前にやっている神式の祈祷なども迷信というものだ。これらは明らかに実社会の能率を下げている。
 一方、日本人の宗教的こだわりの無さは概ね美点といえる。
 日本人は宗教的こだわりが無いゆえにキリスト教社会であろうとイスラム教社会であろうと殆ど宗教的対立なしに溶け込むことができるからだ。
 これは北米や南米に移民した日本人の姿を見れば明らかなことだろう。
 ヨーロッパで移民したイスラム教徒がなかなか地域社会に溶け込めず問題の原因となっているように、本来、思想、信条、生活様式が大きく異なる異教徒どうしが同一社会で共生するのは難しいことだ。
 世界から見れば日本人の宗教的おおらかさの方が稀有で特殊なものというもの。もっとも、それは宗教問題に対する日本人の鈍感さの原因でもあるのだが。
 迷信というか悪しき習慣ともいうべきものが、事なかれ主義。
 日本の歴史の一面には「さわらぬ神に祟りなし」といった思想に基づいた事なかれ主義とその反動による弾圧がある。
 例えば戦前の軍部、例えばオウムなどのカルト。
 これらは人々が事なかれ主義で問題が成長するのを黙認した結果、その問題が大きくなりすぎ、結果、大掛かりな問題の解決が必要となった事例といえよう。多くの場合、これには付随して感情的で過剰反応な弾圧が伴う。
 正直な話、これらは初期の問題が小さいうちに人々が批判精神を発揮して対処していればさして問題にならなかった程度のもの。
 だが、人々が批判に対する報復を恐れ、批判を自粛してしまったがゆえに相手を増長させてしまい、問題をどうしようもないくらいに大きくしてしまった。
 武士道のような覚悟と決断の哲学を持ちながら、それを実践できる人は少なく、実際の日本人の多くは臆病ということだな。
 「義を見てせざるは勇なきなり」という。自らの思いが正しいことと信ずるならば報復を恐れずに主張すれば良い。相手がそれを暴力などで封じようとするならば、そのこと自体を社会に主張すれば良い。報復により死しても後に続くものが引継げるようにすれば良い。
 「板垣死せども自由は死せず」の心意気だ。(実際に言ったかはさておき)
 報復を恐れての自粛こそが社会を歪ませていくものという歴史の教訓を我々は無駄にすべきではない。

 迷信は、現実とは因果関係の無い、むしろ今となっては社会の能率を下げることで社会に不利益をもたらす習俗ゆえに迷信というもの。
 交通安全などのお守りの加護はあるのか?否、未だに交通事故の件数は数多い。神官の祈祷を受けた帝国海軍の艦船は沈まなかったか?否、そのような加護の無い米国艦艇や航空機に沈められた。
 お守りも祈祷も現実との因果関係を持ちはしない。それに因果関係を感じるのは科学性を欠いた迷信にすぎない。
 そして、迷信による能率の低下は、より能率の良い行動様式に対して不利な条件となる。迷信や根拠の無い精神論にすがるものは、先の大戦における軍部と同様に無様な敗北を覚悟すべきであろう。
 人身御供や成人儀式としての抜歯など、我々は様々な迷信を過去の歴史としてきた。
 伝統の中の美点は残しつつ迷信の類は過去の歴史としてゆくべきと拙者は考える。
 より人々が幸福に暮らせる社会を作るために。


二六六五年七月六日

日本人の自然な信仰と伝統

 元旦に神社へ初詣。二月にはバレンタインデー。お盆にお彼岸。幽霊話は夏の風物。クリスマスを祝い、年末には除夜の鐘。無信仰とかいいながら霊やあの世や転生を信じ、不幸が続けばお払いやお守りにすがる人がいる。そういう日本では当たり前でも異国人から見れば奇異な風景。
 日本人は自分では無信仰とか無宗教とか思っていながら、宗教的な振る舞いをする。
 それが古くから様々な宗教を受け入れてきた日本の自然体な宗教、芥川龍之介の言うところの「作り変える力」、井沢元彦の言うところの「怨霊信仰」、八百万の神を受け入れる日本人が無自覚に受け入れている信仰である神道。
 天皇を国民に絶対神扱いにさせた国家神道の方が日本の伝統に反する異端な信仰というものだ。
 靖国神社は未だ国家神道を引きずっているし、国家神道系の連中はそれを正当化しようとしているが、やたらと厳格で息苦しい国家神道は日本人が自然体に受け入れてきたおおらかな信仰である本来の神道とは異なる宗教。
 その国家神道を復活させようとすることこそ日本の伝統に反するというものだ。

 国家神道系の連中は夫婦別姓にも反対する。
 夫婦別姓が何故駄目なのだ?
 源頼朝の妻の名は北条政子であろうに。
 夫婦同姓の方が明治以降に導入された日本の伝統に反する制度というもの。
 夫婦別姓の方が日本の伝統を考えれば復古というものだ。

 結局、国家神道系の連中の望む日本というのは、日本の本来の伝統に則った日本ではなく先の大戦の頃の国家神道カルトに染まって異常だったころの日本ということだな。
 彼らはその中で天皇の側近となり天皇を道具とすることで栄達を望んでいるのであろうか。かつての軍閥のようにな。

追記(二六六五年七月一〇日)
 拙者自身が現実における因果関係において転生も霊の存在も信じないゆえ、日本では一般的な行動を奇異に感じるところがある。怪談話は霊の存在を信じていなければ怖くなかろう。何々の生まれ変わりとか、霊感あるんだよとかいう、拙者には与太にしか聞こえぬ話をする人間も日本では普通に生きていける。霊視や降霊といった拙者にはいんちき臭く見える霊感商法がどうどうと看板を出している。そもそも、日常的に使われる「もったいない」、「縁起でもない」、「罰が当たる」といった言葉自体が霊性と現実との因果関係を認める言葉だ。結局のところ、日本には日常生活における習俗といったところまで社会に溶け込んだ「宗教」があるということだな。ただそういう「宗教的な行動」は日本においてはあまりにも普通なことゆえ宗教的な行動という認識の外にあり、ゆえに宗教として認識されていない。色々な書を読んで「外国人から見た日本人」という視点を得ると、まこと日本の習俗は面白いものよ。


二六六五年七月四日

八紘一宇はユニバーサルブラザフッド

 皮肉が皮肉と解らない人間には皮肉は通じない。
 作家バーナード・ショーの皮肉もかつての日本人には通じなかった。
 いわんや、「人の振り観て我が振り直せ」ということが解らぬ連中をや。
 この世には皮肉をもってギャグとしているのにそれが通じぬ人がいる。
 この手の連中は直接的に表現せねばものが伝わらぬので風流が無い。

 さて、保守を自任するものの中に中国人差別や朝鮮人差別といった差別を公然と行うものがいることは嘆かわしいことだ。
 我等の祖先が掲げた人種平等の理想を知らぬのであろうか。
 八紘一宇は世界全体が一つ屋根の家族のように仲良く暮らせるといいのにという理想。英語に訳せばユニバーサルブラザフッド。
 つまり、八紘一宇とは「人類みな同朋思想」ということ。
 人種差別や民族差別や国籍差別や宗教差別など論外ということだな。
 我等の祖先がこの理想に反して一等国民、二等国民などと同じ人種間でも差別を行ったのは恥ずべきことだ。
 そして、未だにそのような人種差別、民族蔑視を行うものがいることも恥ずべきことだ。

 差別を行う人間は差別が気持ち良いのであろうか。
 民族の違いという差別的根拠で他人を見下すことでしか優越感を満たせない下衆なのであろうか。
 日本人であることにしか誇りを抱けないような人間なのであろうか。
 日本人としての誇りを主張するのであるならば、まず日本人としての矜持を持つべきだ。
 傍から見て醜い真似をして日本人の名を下げるような真似をすることこそ日本人の恥。
 差別を行う人間の姿は醜い。

 中国人や韓国人が公然と日本人を差別する発言をするのを見るのは確かに不愉快だ。
 だが、その腹癒せに自らが差別発言をしてどうなるというのだ。
 そのようなことをしても差別は無くならぬ。むしろ傍観者たる欧米人に「同じ人種同士で醜い争いをしている」と猿扱いされても仕方ないというもの。
 相手の振る舞いがどうあれ、あくまで日本人としての矜持、文明人としての矜持を持つべきなのだ。
 相手が野蛮な振る舞いをするからといって、自らも野蛮な振る舞いで応じれば、その時点で文明人として負けなのだ。
 我等は亜細亜人として、欧米に対しては亜細亜人が文明人であることを示し、亜細亜に対しては文明国がいかにあるべきかの手本を示さねばならぬ。
 人種差別や民族蔑視を煽るのは情けない後退といわざるをえない。
 中韓政府の不実は責めるべきだが、中韓国民はその政府の犠牲者という視点を持つべきというもの。
 そのような民族差別を植えつける民度の低い教育しか受けられない不幸に対して同情すべきだ。
 そして、我が国においても国内のそのような差別を植えつけようとするような言論に対抗すべきなのだ。


二六六五年七月三日

 天皇、皇后両陛下によるサイパンへの慰霊訪問に対し、中国各紙が「侵略を美化する」などとして、これを批判する記事を掲載したという。

該当の記事

 これは中国側の約束違反というものだ。
 東京裁判とサンフランシスコ講和条約により、日本国内の認識はどうあれ、国際的には「A級戦犯が全て悪いのであり、他の日本国民はA級戦犯の統治の被害者」ということになったはず。
 (ゆえに、以前述べたようにA級戦犯が合祀された靖国神社への公式参拝がそういった国際的な同意事項への約束違反であるわけだ。)
 よって、当然のことながら「A級戦犯の統治の被害者」であるサイパンでの戦没者への慰霊は批判されるいわれの無いものであり、中国側の批判は、そうした国際的な同意事項への約束違反となる。
 この件で気になるのは、共産党機関紙である人民日報が報じていないこと。つまり、中国共産党自体はこうした国際的な同意事項に基づいた暗黙の了解という約束を守っているということ。
 これが意味することは何か?
 こうした批判は各新聞社による中国共産党政府へのゴマすり記事である可能性が最も高いということ。
 このようにすれば中国共産党の覚えもめでたかろうとの邪推のもとでの批判記事というわけだ。
 そういう邪推のもと、自発的にゴマすり行動をする卑劣な者はどこにでもいるし、あまりの卑劣さにゴマをすろうとする相手の機嫌を損ねるような愚か者もどこにでもいる。
 我が国にも「こうすれば米国の覚えがめでたかろう」と自発的に米国の提灯持ちをしたり米国に都合の悪い言論を抹殺しようとする連中がいるしな。
 ま、「大衆紙に批判的な論調が目立つ」という所からも、そうした記事を書いたものの人間としての水準の低さが伺えるな。権力迎合に大衆迎合のご機嫌取り。論理的正しさよりも受けと扇動を狙うマスコミの風上に置けぬ連中。
 こうした分析が正しかろうと間違っていようと、ただ言えることは、こうした約束違反な批判は今の中国の民度の低さの表れということだな。そして、それは残念なことだ。


二六六五年六月三〇日

 東京裁判について、「サンフランシスコ講和条約で受諾したのは判決であって裁判ではない」と主張して、東京裁判は無効だと主張するものがいる。
 なるほどjudgementsの訳としては判決の方が正しかろう。
 だが、それで何が変わるというのだ。
 仮にその者たちのいうように東京裁判が無効としよう。裁判が無効なら、裁判が成立することが前提となる判決も無効。無効な判決を受諾するのでは意味が通らぬ。
 つまり、判決を受諾することは判決の有効性を認めているということであり、その前提となる裁判の成立を認めているということだ。
 まったくもって、この手の東京裁判無効論は言葉尻を捕らえての詭弁・強弁というものだ。
 この手の主張をする連中はお子様レベルの屁理屈を主張することで日本の恥を世界に晒したいのであろうか。
 ま、このような連中はそもそも東京裁判の本質を理解していないのであろうな。
 東京裁判は連合国による復讐裁判であると同時に国民全体の罪と天皇の罪の全てをA級戦犯に背負わせるための儀式でもあった。
 東京裁判を否定するということは、A級戦犯が背負っていった罪、つまり我々自身と天皇の罪を問い直すということとなり、国の方針を誤った全ての責任を背負わされたA級戦犯の犠牲を無にすることとなる。
 まあ、昭和史を問い直すという意味では、それも良いかもしれぬな。
 大方の人にとってこのような昭和史はどうでもいいことであろうが、そのようにして過去の歴史に教訓を学ばぬことは先祖に対して申し訳ないことと拙者は思うし、何らかの形でそれを学ぶ機会があってしかるべきと考える。


二六六五年六月二六日

靖国A級戦犯合祀問題における「死者を差別するな」論の非合理性

 「靖国にA級戦犯が祀られているがゆえに参拝反対」という意見に対し、「死者を差別するな」と反論するものがいる。
 こういう論を張るものは靖国神社自体が死者を差別していることを失念しているのであろうか。
 靖国は死者を差別している。
 軍人と民間人。
 軍人の死でも戦死と任務中の事故死。
 明治維新における明治新政府軍と幕府軍。
 西南戦争における政府軍と西郷隆盛軍。
 そして、死者の霊を英霊と英霊以外というように。
 靖国神社自体が死者を差別しているのに、「死者を差別するな」という論を張ってもいかにも説得力が無い。
 靖国A級戦犯合祀問題において「死者を差別するな」と主張するならば、まず、靖国神社自体が死者を差別することを止めるべきなのだ。死者をあからさまに差別する国家神道を捨てるべきなのだ。
 「死者を差別するな」論は感情論によるすり替えで論理性に欠けると言わざるをえない。


二六六五年六月一九日

 日中間の靖国と内政干渉の問題について。
 日中間の条約を盾に「中国の日本に対する靖国参拝批判は内政干渉にあたらない」との主張が人民網で掲載された。
 謀略的にはこれは中国政府がまずは弱いカードを切って日本側の対応を観たと見る。
 靖国参拝と戦犯に関してはより決定的なカード、サンフランシスコ講和条約という切り札があるからだ。
 日中間の条約という弱いカードに基づく批判は政府としてではなく人民網に掲載という形で行い、いざとなれば中国政府自体はサンフランシスコ講和条約という決定的カードを切る用意があるということであろう。
 考えてもみよ。戦犯は赦免されたのであって無罪になったわけではない。
 東京裁判で戦犯とされた方々は、この裁判が連合国の復讐裁判であったことから、拙者の認識としては冤罪であり戦争犯罪人ではない。しかし、連合国にとって彼らは未だ戦争犯罪人なのだ。
 我が国固有の事情を説明せず「戦争犯罪人」を祀り参拝するのは、「戦争を反省していない」という誤ったメッセージを連合国に対して送ることとなる。
 それに、我々は東京裁判の判決を受け入れることを前提の一つとしてサンフランシスコ講和条約に調印している。
 米国がサンフランシスコ講和条約を反故にし、東京裁判の「再審」を認めるであろうか。
 つまり、サンフランシスコ講和条約を持ち出された場合、米国はこの件に関して日本に味方したかろうがなかろうが、中国側の言い分を認めないわけにはゆかない。
 ただ、中国としてもそこまで話を大きくしたくはなかろう。多国間の問題となるサンフランシスコ講和条約ではなく、二国間の条約を持ち出してきたのは、この問題を日中二国間の問題に留めるためといったところもあろう。中国にしてもこの問題を自国に都合よく制御できる範囲に留めたかろうからな。
 靖国参拝で誰が実質的に利益を得るか考えてみよ。
 中国にしても韓国にしても日本が本質的問題解決を図らずに靖国参拝をしているおかげで自国の国民の怒りのベクトルを自国政府に対してではなく日本に対して向けることができる。
 日本政府にしても、本来は経済における失政に対して向かうべき国民の怒りのベクトルを中韓に向けることができる。
 つまり、靖国参拝で対立を煽るのは米国にとってだけでなく、日本政府や中韓にとっても都合がいいということだ。国民を誘導するためのちょろい策というものだな。
 だが、こういうちょろい策に乗って扇動する、あるいはこういうちょろい策に易々と引っかかる偽愛国者がどこの国にも多いのもまた事実。
 ま、憎しみや妬みを煽ることで「弱者に弱者を叩かせる」というのは統治の基本というもの。
 それに易々と引っかかるから愚民と呼ばれるわけだ。
 国民一人一人が騙されぬ知恵を身につけねば民主主義は成立しないというのに何ともお寒い状況というものだな。
 ゆえに日中韓どこも、靖国参拝を都合よく政治利用できる間はこの問題の本質的解決は図らぬであろうな。
 そう、この問題の本質的解決こそが、中国政府(つまり中国共産党)と韓国政府にとって最も都合が悪いものなのだ。
 中国にしてみれば、日本の首相が靖国に参拝しても、参拝しなくても困らない。
 参拝すればするで、国民の怒りの向きの制御に使えるし、いざとなればサンフランシスコ講和条約というカードを切れる。参拝しなければしないで、日本の保守層を弱体化(遺族会を中心とする保守層の票田を失わせるなど)させ日本を制御しやすい国にできる。
 だが、日本が相互理解と国民間の友好関係構築に勤め国際的に戦犯慰霊のための靖国参拝を認めてもらえばどうであろう。中国は国民の怒りの向きを制御するカードを一つ失うこととなる。
 そのようにして中国共産党の国民を制御するためのカードを一つ一つ失わせていけばどうなるであろうか。遠い先のことかも知れぬが、拙者、中国共産党は中国国民自体が倒すべきものと考える。
 我々の脅威はチベットやウイグルに侵攻した覇権主義丸出しの中国共産党であって中国国民ではない。
 為政者の誘導に乗せられて相互に憎み合うほど虚しいことは無い。

 ただ、相互理解にあたっては靖国そのものも見直さねばなるまい。
 靖国は死者の無念を慰霊する古神道と英雄を称える国家神道の狭間にいる。
 国家神道的に死者を英雄とし「名誉の戦死」を称えるならば戦犯を祀ることは「戦争を反省していない」ことと受け取られよう。
 戦犯として裁かれた人々の無念を思い、古神道的に死者の無念を慰霊し、そのことを相手にも理解してもらってこそ相互理解は成り立つと拙者は思う。


二六六五年六月一六日

 靖国に関して記した。書きたいことは他に多々あれどいかんせん時間が無い。
靖国問題


二六六五年六月八日

 読売が国立追悼施設の建立などと主張しだしたな。
 従来は靖国参拝を肯定していたのにのう。
 なんともはや無様なものだ。
 大方圧力がかかったのであろう。
 圧力がかかったとしたら、どこからか。
 読売だけに中韓に屈してということはあるまい。おそらく米国であろう。
 中韓に対しては高圧的な一方、どんな屈辱的なことでも米国のいうことに従うのが読売と産経だ。
 さて、圧力をかけたのが米国とした場合、それは何故か。
 最も可能性が高いのは、靖国参拝が東京裁判史観の否定に向かいそうになったからということだな。
 そもそも東京裁判史観を作り出したのは米国。
 その米国が東京裁判史観を引っ繰り返すことを認めることはまず無い。日本側がそれと釣り合うだけの交換条件を出さぬ限りな。
 米国が小泉首相の靖国参拝を陰ながら後押ししていたのは、それが日中及び日韓の対立を煽るカードに使え、それが米国の国益に適うからであって、日本のことを思ってのことではない。もっとも、仮定の上の推測に過ぎぬがな。
 ただ現状認識として、もし米国が靖国参拝を認めてくれるからといって東京裁判史観の否定まで認めてくれると考えているのなら、親米どもは頭の中がお花畑としか言いようが無い。
 まあ、読売、産経やそれに連なるスタイル保守どもは、八紘を「ハチコウ」と発音したり、「強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん」などと言ったりと、無教養で日本人としてどころか人としての最低限の矜持も持たぬ品性下劣な阿呆揃いだからして当然のことか。
 違うというのであれば、まずはそういう恥さらしを糾弾することだな。
 ともかく今回の件、読売が威勢がいいのは口先だけであることを自ら示してくれた点では大きな意義があった。

 靖国参拝自体についてはまた後日書くが、前提として取り敢えず国家神道について記す。
必要悪だった国家神道という「カルト」


二六六五年六月四日

 韓国漁船の違法操業と海上保安庁との合意文書について。
 このような問題に対する政府の弱腰はいつものことだが、こちらに正当性があるのにあのような形で決着することは非常に情けない。かつて日本の漁船が勝手に領海を主張する韓国に捕まって漁船が韓国に没収された上に漁民が泣き寝入りすることになっても放置していたことを考えると、日本政府に自国の国民や権利を護る気があるかは甚だ疑問だ。北朝鮮有事が近々あるかもしれぬということに基づいた配慮なのかとも考えられるが、単なる事なかれ主義の可能性の方が圧倒的に高い。
 海上保安庁の職員もさぞ残念であったろうと思う。
 自国の国民や権利を護ろうとしない政府は国民に愛想をつかれても当然というものなのに、日本政府にはそれが解っているのだろうか。威勢がいいのは国内向けだけで、やっていることは結局、米中韓の顔色を伺ってのことばかりではないか。
 中国の反日の問題にしても、国内の報道向けには威勢のいいことを言っているが、小泉首相は会談のときにそういう話題にまったく触れなかったし、武部にいたっては発言撤回という屈辱。
 この内弁慶ぶり、あまりにも情けない。特に小泉首相は嫌なことから逃げたがるお子様か?あの場で国民の代表として国民の権利を護るためにきっちり発言しないでどうするというのだ。
 我々にしても、中韓を批判するだけでなく、そのような中韓に屈する政府を批判し、きちんと自国の国民及び権利を護るようにしていかねばならぬのだろうな。民主主義国家における国民の義務というものだ。
 閑話休題。
 韓国側は合意文書の内容に関しデタラメを主張しているし、この前は中国が反日活動鎮静化のために勝手に日本が謝罪したことにしたわけだが、中韓のこの手の嘘はどうしようもないな。
 彼らは自尊心を護るためには平気でこの手の嘘を吐く。そして、これらの事実は彼らの自尊心には誠実さが含まれていないことを証明している。
 結論として、中韓は儒教圏とはいうが儒教国ではないわけだ。
 孔子は「剛毅朴訥は仁に近し」といわれた。
 剛毅木訥とは真っ正直で勇敢で寡黙で質実であるということ。
 彼らは嘘吐きで真っ正直ではない。彼らは力に媚びて勇敢ではない。彼らはつまらぬ口実でやたらと騒ぎ寡黙ではない。彼らは地位を持つと豪奢な生活を求め質実ではない。
 彼らは仁とは程遠い。
 我が国において武士が誠実さや勇敢さや寡黙さを誇りとし、質実な文化を築いたのとは大きく異なる。
 我が国の多くの人が勘違いしていることは中韓を儒教国と思っていることだ。
 実際の彼らの行動を見る限り、やたら悌考を強調するものの、儒教の本質である仁は軽んじられている。
 このような儒教の本質の軽視は論語読みの論語知らずというものだ。
 我々は、歴史的に刷り込まれている儒教国という先入観ではなく、彼らの実際の行動から彼らの人となりを判断し、それに応じた対応をすべきなのだ。
 彼らは儒教的な価値観に基づいた対話が可能な相手ではない。


二六六五年五月二三日

 親米は終戦時のソ連の蛮行を非難する。それに対して拙者は異存ない。だが親米は、そのソ連に大量の軍事物資を支援し、密談の末、対日参戦を唆したのが米国であることを語らぬ。
 親米は終戦後に台湾に上陸した国民党の蛮行を非難する。それに対しても拙者は異存ない。だが親米は、国民党を支援し台湾にその国民党軍を運んできたのが米国であることを語らぬ。
 そして親米は結論づける。信用できるのは米国だけだと。
 拙者に言わせれば、大陸勢力を信用するのは愚かだが、米国を信用するのも愚かなことだ。
 冒頭の件であれば米国がそもそもの原因を作っていることは調べればすぐに判る事。親米のそのような論に騙されて米国を信頼してしまうような者は、ネットで垂れ流されるそのような言説を検証することなく信じてしまい、自分で調べて物事を学んだりしない愚か者だけと言えよう。
 なるほど、冒頭に挙げたような親米のいうことは事実だが、親米の言だけを聞いて導き出される結論は事実と異なる。
 このように自らの主である米国のご機嫌を伺って、誘導のための見え透いた事実の隠蔽を行うから親米は信用できぬ。

 親米は共和党の米国について行けば間違いないという。
 果たしてそうか?
 拙者の見立てでは民主党は日本を経済的敵国と見ているが、共和党は日本を経済奴隷と見ている。
 前者に関して異論はあるまい。クリントン自体がそう明言した。
 後者に関しては中曽根時代からの米国に対する隷属ぶりと米国の日本に対する年次改革要望書の存在を見れば自明というもの。
 共和党について行く道は奴隷としての搾取を強化される道に他ならない。
 親米にとっては、敵国と奴隷のどちらがマシかという二択で奴隷の方がマシという結論なのかも知れぬが、拙者はどちらもごめんこうむる。
 だいたい、親米は共和党を親日的というが、実際のところ親日的なのは共和党の中でも知日派という少数グループに過ぎない。
 多くの者は日本人を真珠湾を仕掛けた信用できないずるい連中と思っている。
 嘘だと思うなら共和党関連の著作を読むが良い。日本人のことをジャップ呼ばわりしている上に、中には経済摩擦のストレスをぶつけるかのような近未来対日戦争を扱ったものまである。これが共和党の実態というものだ。
 現在は共和党の中でも知日派という少数グループが政権中央に集まっているにすぎない。
 しかも、報道の通り近年の共和党ではそういう知日派が減ってきている。
 結局のところ、共和党も当てにはできぬ。
 むしろ、このまま共和党にじわじわと食い潰されるより、民主党が政権を取って、その政策の結果、日本の米国離れが進んだ方が幸いというものかもしれぬ。
 そもそも我が国に米国で民主党と共和党のどちらが政権を取るかの選択権は無い。
 大事なことはどちらの政党が政権を取っても大丈夫なような態勢を整えることだ。
 共和党の米国について行くことではない。
 親米は民主党が政権をとったときにどうするつもりなのだ。後先考えぬ愚か者か?
 共和党の米国について行けば間違いないということは無い。

 親米は道徳腐敗を批判するが、彼らにそういう資格はあるか?
 米国が我が国にしたことを省みよ。
 大戦末期には東京、広島、長崎と無差別大量殺戮により「死ぬより隷属の方がまし」と日本人の心を折り、戦後は教育勅語の廃止とWGIPによる洗脳教育で日本人の心を折ろうとしたのが米国だ。
 米国の行いは戦争ゆえだが、戦後、その米国による洗脳教育に協力したのが親米どもではなかったのか?
 日本人の誇りを根こそぎ奪い日本人を精神的に抹殺するためのWGIPに加担し、それにより米国から栄達の道を与えられた親米こそが、日本人にとっての裏切り者であり、今の道徳腐敗の原因というもの。
 米国に対して誇りを捨て奴隷として生きるのを推奨する親米の姿のどこに葉隠れ精神があるか?
 なのに親米は誇りと道徳のために武士道を説き、ラストサムライのような侮辱的な映画を賞賛する。
 親米に武士道を語る資格なし。
 親米が擁護する小泉首相の態度はどうだ?
 無責任な詭弁と人をバカにした薄ら笑いで真っ当な議論から逃げる姿は子供の精神教育上非常に悪いというものだ。
 このような不道徳を親米はむしろ賞賛する。
 親米に道徳を語る資格なし。

 親米は先の大戦において、我が国が米国に従わなかったのが悪いという。果たしてそうか?
 そもそも先の大戦における日米戦争は米国の巧みな戦争挑発行為の結果というもの。
 なるほど、確かに先の大戦において我々は悪かった。
 だが、我々が悪かったのは大局を見失いあっさりと米国の戦争挑発行為に乗せられてしまったことだ。

 残念なことに「騙された方が悪い」は未だ国際常識。
 ゆえに、拙者、数々の米国の策謀をもって米国への感情的な敵対を煽る気は毛頭無い。
 米国が自らの国益のために、我が国と周辺諸国の緊張を煽るための挑発行為を行ったり、我が国を米国に従えるための宣撫工作を行ったりするのはある意味当然のことだ。
 それに対して乗せられぬための知恵を身につけることもまた、ある意味当然のことだ。
 我が国が成すべき事はそういう当然のことを認識し、その上で大局を見て何が最適かを判断する事というもの。その程度の腹芸が出来ぬでどうする。
 問題は日本人でありながら日本人の心を忘れて米国のそうした計略に加担する者達だ。
 自分たちさえ米国から厚遇されることにより良い暮らしが実現できるのならば、他の日本人がどれほど塗炭の苦しみを味わおうと省みぬ者達だ。
 このような自己中心的な者達が愛国心だの公徳心だのと主張してもまったく説得力が無い。
 特に「何々すれば日本から出て行く」と言う類の者は本当に日本から出て行けば良い。
 自分達の利益のためならどれほど他が赤貧に喘ごうが構わぬという拝金主義者は国のためにならぬ。
 拝金主義者の国へ行って拝金主義者同士で共食いをしているのがお似合いだ。


二六六五年五月一五日

 拙者、親米が誇りだの愛国心だのと主張しているのを見ると不愉快千万な気持ちとなる。
 反日どもは連合国の意を受けた自虐史観をもって我が国の誇りを奪っているが、親米どもも米国の手先となって誇りを奪っているのに何が誇りか、愛国心かとな。
 米国に対して隷属外交することに対して批判があると親米は決まって言う。軍事を米国に依存する属国だからしょうがないとな。
 自国の防衛は自国で行うようにすべきだという意見があると親米は決まって言う。米軍ほど費用対効果に優れた傭兵はいない。軍事を米国に依存すべきだとな。
 まったくもって何をかいわんや。
 マキャベリは傭兵を何といったか?傭兵はあてにならぬといったのではなかったのか。傭兵は国の行く末より、自らの保身と収入を優先するからとな。
 このように書くと、親米は傭兵を支援軍と言い換えるかも知れぬが、マキャベリはこうも述べている。支援軍は傭兵以上にあてにすべきではないとな。
 正直、マキャベリの言うとおりであろう。
 MiG25亡命事件の際の対応でも明らかと思うが、いざ我が国で有事が発生した際、当然のことながら米軍は米国の事情を優先して動く。つまり、必ずしも我が国を護るために動くわけではないということだ。
 ローマに敗北して属国となり軍事をローマに任せたカルタゴは経済的には繁栄したものの有事の際に自国を防衛できず滅びた。
 ローマにしても軍事を傭兵に任せた結果、その傭兵に滅ぼされた。
 傭兵や支援軍は費用対効果に優れているかもしれぬが、歴史は軍事を傭兵や支援軍に任せることは滅びの道と示している。国が滅びてしまえば費用対効果など何の意味も無い。
 親米の本音は明らかというもの。我が国の軍事を米国に依存させ続けることで、我が国を米国の属国のままでいさせようという魂胆が丸見えだ。
 それだから、親米は言動がダブルスタンダードとなる。
 あるときは誇りを持てといい、またあるときは属国なのだから誇りを捨てて米国に隷属せよというようにな。
 それもこれも、実のところ彼らが日本の都合より米国の都合を優先しているからというものだ。
 親米の言うところの誇りは所詮、米国の手駒として我が国を使うための誇りに過ぎぬということだな。
 ま、国際情勢の実態を考えれば親米の属国論はおかしなものだ。確かに我が国は法的な問題で軍事を米国に依存しているかも知れぬが、経済では米国が我が国に依存している。日本の米国債購入無しに米国経済は立ち行かぬ。日米は相互依存関係であり、一方的に米国に依存しているわけではない。
 つまり、我が国は米国に対して言うべきことを言える材料を十分に持っているのだ。
 我が国をして米国の属国化をしているのは、実のところ親米どもということだな。やれやれでござるよ。

 戦前の我が国では、メディア操作の影響もあるが、米国をして、個人主義、金権万能主義、エロティシズムの氾濫する邪悪な国として憎悪していたものだが、いまや我が国がそのような国となってしまったな。
 親米保守の論客はそれを日本人が誇りを失ったせいだとして、誇りと愛国心の運動を行っているが、いかがなものか。
 拙者は日本の文化が親米どもの指導の下、単に米国化し、さらに先を行かんとしているだけと思うがな。
 それに対する処方は反米ではなく離米。自国の防衛は自国で行うという当たり前のことを行い、米国は数ある国の一つという当たり前の視点を持つことでござるよ。


二六六五年四月二〇日

分析手法(例題:中国反日デモ)

 やれやれ。中国における反日デモ報道にはいいかげんウンザリするな。
 センセーショナリズム過剰というものだ。
 客観的報道を今の日本に期待するだけ無駄というものかもしれぬが。
 さて、中国の反日はいつものことだが、今回はこれを例題に拙者の分析手法を紹介するとしよう。

 まずデモの原因を網羅してみよう。
 これは、「何らかの機関による工作」による場合と「住民感情からの自然発生」による場合に大きく分けられ、工作の方はさらに「国内からの工作」と「国外からの工作」に分けられる。

 「国内からの工作」の場合。
 まず「誰が」というのが問題となる。
 そこで候補として挙がるのは「中国政府」と「企業、マフィアを含む何らかの経済組織」。
 しかし日本からの資金や技術の流入で利益を得ている経済組織が対日関係の悪化は望むことは考えにくい。
 ゆえに「国内からの工作」の場合、その首謀者は中国政府とほぼ断定して良い。
 さて、これを中国政府の工作として、その目的は何か?
 これは「外交問題のカードとして」の場合と「内政問題のカードとして」の場合に分けられる。
 「外交問題のカードとして」の場合、目的は尖閣諸島などの領土問題に対して日本から譲歩を引き出すためと日本の常任理事国入りを阻止するためといったところだろうか。
 だが、こういった可能性は低い。
 反日デモはこれらの目的を達成するのに対してあまりに不確実な手段であり、日本からの資金及び技術流入のメリットと比較して余りにもデメリットが大きいからだ。ゆえにこの可能性は殆ど無視してよい。
 これらの要求は(副次的なものとしてはともかく)デモの主目的とは考えにくく、デモのついでに中国政府の本音が漏れているといったところか。
 「国内問題のカードとして」の場合、目的は中国国民のガス抜きといったところであろう。
 近年の経済成長に伴う貧富の差の拡大で、中国ではそういった現実を容認している中国政府に対する不満が国民間で蓄積されてきておる。
 このような政府への不満を逸らすために古来より用いられる方法として「国内問題に対する不満の矛先をそらすために外敵を設定する」というのがある。
 つまり「国内からの工作」の場合、反日デモは中国国民の非難を中国政府から日本に逸らすために中国政府が仕掛けた可能性が高いということだな。中国政府が国体を維持するための不満の捌け口というわけだ。
 歴史上、良くある事。
 西暦一九八〇年代の日米貿易摩擦のとき、共和党レーガン政権が自らの政策の結果である双子の赤字を日本の貿易黒字の所為にしたのと同じようなものだ。
 あのときの米国でも、日本国旗が焼かれ、日本製品が破壊され、日本人や日系人が襲撃された。「同盟国」の「味方」に対する仕打ちがあれだ。
 中国の反日デモは、あのときの米国と同じように本来は内政問題に対する不満のベクトルの向きを日本に変えている可能性がある。

 この場合、日本はどうすれば良いか?
 状況が変わるまで静観しておれば良い。
 放っておけば事態は進展する。
 いずれ、ガス抜きが終わるか中国政府が「反日デモの結果としての日本企業撤退のリスク」に耐えきれぬようになる。
 先日、中国側が日本が謝罪したのどうのと報道していたが、謀略的な視点からはあれを「この通り日本が謝罪したのだから、そろそろ反日デモを止めてくれ」という中国政府による中国国民向けのメッセージと見る。
 つまり、「中国政府はそろそろ日本企業撤退のリスクに耐えきれなくなってきている」ということだ。
 日本が中国から資本を引きあげれば中国も困るのだ。
 そして、案の定、中国政府は「無許可デモ参加禁止」「日本との経済的関係は重要」といった報道をしてデモの鎮静化を図ってきた。
 謀略的な視点からは、これを中国の反日を反政府に引っ繰り返す機会と見る。
 中国人扇動者を雇い「経済のために日本に媚びる政府を打倒せよ」などとアジらせるわけだ。中国政府の反日教育を逆利用してやるわけだな。
 これは中国政府を倒すための謀略ではなく、中国政府の暴動鎮圧の犠牲をもって中国の弱体化と中国政府の国際的地位の低下を狙ったものだ。
 しかし、それで中国政府が倒れてしまうとしても、それはそれで構わない。
 それで被る経済的被害と、このまま共産党中国が成長しつづけることによるリスクを天秤にかけて考えることだ。目先の企業益と将来的な国益と、選ぶならどちらかという問題だ。
 やるかやらないかは日本しだいだが。

 次に「外部からの工作」の場合。
 首謀者の候補として残るのは米国。
 日中関係に利害を持つ国々は色々あるが、動機と実行力を併せ持つのは米国のみ。
 利害のみで考えれば、例えばヴェトナムも日中の対立で利益を得る国だ。しかし、あのようなデモを扇動する能力を持つとは考え難かろう。そういうわけだ。
 さて、この場合、考えられる米国の目的は?
 日本と中国を対立させて漁夫の利を狙うため。
 カラーノート計画に見られる米国の性格を考えれば、米国はまず間違いなく中国を仮想敵国とした戦争シナリオを書いていることだろう。
 もし拙者が米国の謀略担当者で、中国との戦争シナリオで日本を尖兵に用いんとするならば、中国で反日を煽り、それを用いて日本で反中を煽り、日中対立を目論む。
 報道というものは、視聴者を誘導するために意図的に演出されることも多いもの。
 中国の反日デモ報道を用いて、日本国民が中国に対して怒りを感じるように仕掛けられている可能性もあるということだな。

 この場合、日本はどうすれば良いか?
 これまた静観しておれば良い。
 反日デモを見て怒りを感じるようでは、まんまと策に乗せられているというもの。
 むしろ、冷静に対処することで「相手の理不尽に対しても紳士として振舞う国」と国際的イメージを良くする機会として利用するほうが得策というもの。
 「暴に報いるに暴をもってなす」は下の下だ。
 泰然自若としてどっしりと構えておれば良い
 乗せられて米国に利用されることはない。
 そもそも中韓がことあるごとに我が国を非難する根拠も米国が押し付けた東京裁判史観にある。
 米国が対中戦略に難儀しようが助ける義理はない。
 法の正義を著しく傷つけた東京裁判に対し米国が公式謝罪し、米国自ら東京裁判史観を払拭し、正式に戦略的協力関係を申し込んでこぬ限り、米国に軍事協力する必要などない。
 米国と米国の狗どもは困るだろうが知ったことではない。
 まず筋を通すべきなのは米国なのだからな。

 最後に「住民感情からの自然発生」の場合。
 これまた静観しておれば良い。
 相手にする必要はない。
 それで日本企業が撤退して中国が損失を被っても、国内の意思統一に反日教育という安易な方法を用いた中国政府の自業自得。
 日中で良好な経済関係を築くために反日路線を親日路線に切り替える責任は中国にある。

 さて、いずれの場合においても結論はでた。
 放っておけば良いのだ。
 ちなみに可能性としては、「国内(つまり中国政府)からの工作」の可能性が最も高く、「住民感情からの自然発生」の可能性が最も低い。
 理由は言論統制国家である中国で「住民感情からの自然発生による無許可デモ」など考えにくいからだ。
 また、これらの複合要因、例えば「住民感情から自然発生したデモをガス抜きのために黙認している」といったケースも考えられるが、対応は変わらない。

 以上が拙者の分析手法だ。このように可能性を網羅しておるわけだな。
 所詮は手に入れた情報の範囲で確率でしか判断できぬことゆえ、ときには分析を間違えることもある。しかし単なる憶測より正答としての期待値は高い。
 イデオロギーや先入観から最初から結論が決まっているような論者とは違うというわけだ。その手の論者は誤誘導を狙った偽情報や選択的情報による誘導に弱い。そして、情報を流した人間の意図するままに誘導されて、論を展開する。困ったものでござるよ。


二六六五年三月二四日

仏蘭西に詰まれた亜米利加

 歴史とは、ときに一つの選択から済し崩しに物事が進むときがある。あたかも詰め将棋のように。
 例えば盧溝橋事件以降の日本の歴史がそうだな。
 中国共産党の謀略による日本と中国国民党の潰しあいを狙った盧溝橋事件(日本側の演習空砲に対する中国側の誤解が原因かもしれぬがな)。国民党など一撃と思い上がっていたためにあっさりその謀略に引っかかって泥沼の日中戦争に突入した日本。中国での利権を維持したい米英は、当然、フライングタイガースに援蒋ルートと国民党を様々に支援し、日本は国民党への補給ルートである援蒋ルートを断つために仏印進駐。亜米利加は報復に対日石油禁輸、そして太平洋戦争と、まあ見事に因果がつながっているものだ。

 さて、今の世を見てみれば、また同じように「詰め将棋」が進んでおる。
 仏蘭西による亜米利加への外交攻撃がそれだな。
 亜米利加は自国の通貨ドルが事実上の単独機軸通貨であることにより、信用がある限り、ドルを印刷するだけで世界中に借金を返せ、世界中から買い物ができる。そして亜米利加にとって、そのような単独基軸通貨特権は、それを失うことが致命的な戦略的条件でもある。
 さて、ある国が覇権国家としての亜米利加を終わらせようとしたとしよう。
 では、亜米利加の覇権国家としての地位を失わしめるにはどうすれば良いか?
 亜米利加の致命的条件を潰せばいい。単独基軸通貨特権はその一つだ。
 では、亜米利加の単独基軸通貨特権を失わしめることを戦略目標とした場合、何をすれば良いか?
 一つ目に新たな基軸通貨として魅力的な新通貨を作り出すこと。
 二つ目に外交で取引における新通貨の使用を促進すること、またはドルの信用を低下させることにより相対的に新通貨への移行を促進すること。
 一つ目はユーロだな。
 では二つ目は?
 かつてのイラクの取引ユーロ化がそれだ。
 そして、それが詰み手であった。
 亜米利加がそれに対してイラクに攻め込もうが攻め込めなかろうが、仏蘭西にはどちらでも良かった。
 亜米利加がそれを見かねて攻め込めば、泥沼にはまって戦費負担により赤字を拡大するように仕向ければ良い。相対的にドルの信用は低下する。攻め込まなければ攻め込まなければで、ドルからユーロへの移行が進んでドルの単独基軸通貨特権は詰む。
 現実には亜米利加はイラクに攻め込み、そして多くの軍事評論家が予測したように泥沼のゲリラ戦にはまった。
 亜米利加としては早くこの泥沼から抜け出したい。そのためにはどうすればいいか?イラクの武装勢力への補給ルートを断つしかない。
 では武装勢力への補給ルートとして有望なものは?地中海からシリアを抜けてイラクへ行く道と隣国イランからの道。
 まあ、今のシリアとレバノンに関わる亜米利加の動きも、そういったところが解ると本音が見えてくる。
 そうこうしている内に仏蘭西と手を結んだ露西亜もユーロ化を宣言。もはやドルの単独基軸通貨特権は詰んだといえよう。
 その結果、どうなるか?
 ドルは、悪ければ基軸通貨の位置を完全に失い、良くてもユーロと基軸通貨の位置を分け合うこととなる。
 ドルの単独基軸通貨特権の喪失は亜米利加経済の崩壊を意味し、それは覇権国家としての亜米利加の終わりを意味する。
 つまり、亜米利加は仏蘭西に詰まれたというわけでござるよ。
 このところ親米連中が躍起になって、どういう謀略が使われたのかも語らずに、仏蘭西を謀略国家と非難しているのもむべなるかな。
 まあ、拙者に言わせれば亜米利加も謀略においては同類というもの。亜米利加の智謀は黙認して、他国の智謀は非難するというのは見苦しいというものだ。
 謀略に長けぬ素直さよと、自らが謀略に未熟なことを自慢するにいたっては片腹痛い。謀略は、使わぬまでも自己防衛のために通じていなければな。
 そもそも亜米利加の単独基軸通貨特権が今のように致命的な条件になったのは、一昔前に日本が提案したように通貨バスケット制度に移行せず、単独基軸通貨特権に寄りかかってきたからというもの。言わば自業自得。
 ドルを買い支えてきたために巻き添えを食らう日本の方が迷惑というものだ。

 さて、亜米利加の単独基軸通貨特権喪失は既に殆ど確定した未来。
 そうなれば、単独機軸通過特権の喪失に伴うドルの放出と、それに伴うドルの暴落も確定。資金力低下により覇権国家的な能力の大幅低下も確定。
 問題はその後の日本の身の振り様というもの。
 道はおおよそ三つ。
 一つは亜米利加と心中する道。亜米利加経済に日本経済を食わせて亜米利加と共倒れするまで亜米利加を支える道。
 一つはユーロ圏と共に歩む道。独仏露と共に経済圏を作る道。
 一つは東亜細亜連合を作る道。東南亜細亜や印度と経済圏を作る道。
 亜米利加と心中する道は長期的には致命的な道。最も人的・経済的損失が大きい道。
 東亜細亜連合はもっともましな道。人的・経済的損失は最小限。うまくいけば繁栄への道。
 この三つの中で一番確率が高いのは、亜米利加と心中する道。
 何故ならば、日本の利益より亜米利加の利益を優先する「心の祖国は亜米利加」といった連中に日本は牛耳られているから。
 一番確率が低いのは東亜細亜連合への道。
 何故ならば、親米には致命的だし、親欧には旨みが少ないから。
 親米が東亜細亜連合に批判的なのも当然。日本が亜米利加を支えるのをやめれば、日本に買い支えられて何とか持っている亜米利加経済は崩壊。一方、日本は亜米利加を支える負担が減るし、既に貿易額に占める亜米利加の割合は低下してきており、亜米利加との貿易量が激減しても致命的ではない。
 まあ、そういうことだ。
 そんな一方、日本がどの道を選ぶかにより利害が大きく左右される国々は、自らの利益につながる道を日本に示そうとする。
 書籍では「大国の興亡」と「帝国以降」がそんな感じだな。
 「大国の興亡」は覇権国家を継ぐのは覇権国家の同盟国で覇権国家を支えた国だという本。覇権国家と対立した国は、競争の末の疲弊で覇権国家と共に衰退するという本。歴史を勉強していれば、それに適合する例はあるものの、そうでない方が圧倒的に多いと判る。いわば与太本。
 「帝国以降」は亜米利加の衰退を予言した本。日本が亜米利加に負けたのは物量のせいだから悲観するなとか慰めたりしてくれてる本。歴史を勉強していれば、国家システムなど、もっと根本的な部分で負けていたことが判る話半分に聞いたほうがいい本。
 「大国の興亡」は亜米利加による「次期覇権国家の地位が欲しければ亜米利加を支えろ」という本。現実には画餅で亜米利加を支えても次期覇権国家になれるとは限らない。むしろ、支え疲れて共に衰退するのが関の山。だが、画餅でも欲しがる連中も世の中には居る。
 「帝国以降」は仏蘭西によるユーラシア連合への勧誘本。独仏露中といった国で構成されるユーラシア連合の中に駄目元で日本も勧誘している。
 では、日本のために日本の進むべき道を示す者は?
 残念ながら力は無い。主張する者の数は少なく、親米連中と比較すれば圧倒的少数者にすぎない。影響力はほとんど無く、東亜細亜連合の構想自体が経済優先の中で腐敗していくのを見るだけだ。

 だからこそ、そのどの道も選ばぬために、亜米利加という国に言いたい。
 単独基軸通貨特権は亜米利加を幸福にしたか?
 世界中の富が亜米利加に集まる一方、亜米利加の国内産業は空洞化し、失業者は増加し、貧富の差は拡大した。結果として、治安は悪化し、一般的な生活は荒廃した。
 単独基軸通貨特権はマクロ的には亜米利加を不幸にしたのではないか。
 今からでは遅いが、遅すぎるということは無い。単独基軸通貨特権を捨てるべきだ。
 単独基軸通貨特権が致命的な戦略的条件なら、その戦略的条件をなくしてしまえば良い。
 今からでもドル安を梃子に国内産業を立て直すのが亜米利加自身のためというものでござるよ。

 だが、おそらくそうはならないであろう。
 少なくとも亜米利加経済界は単独基軸通貨特権を優先する可能性が高い。ならば高所得層の味方であるブッシュ政権もそのように判断するであろう。
 それに、誰も単独基軸通貨特権喪失に対して積極的に責任を取ろうとはしないであろう。ぎりぎりまで先送りにして自分が当事者になるのを避けようとするであろう。
 何ともバカバカしい話でござる。その先の崩壊が見えているのに目先の利益を優先するとは。
 そうするかどうかは亜米利加次第であるわけだがな。


二六六五年一月五日

 インド洋での津波による災害は多くの人々に多大な被害をもたらした。しかし、これにともなう自衛隊の災害派遣は海自の16DDHの必要性を示したといえよう。
 このような災害において大型輸送ヘリによるヘリコプター揚陸が可能なヘリコプター揚陸母艦型多目的強襲揚陸艦が果たせる役割は大きい。
 もし今16DDHがあれば、災害に苦しむ人々の救助、被災者の収容と治療、臨時の居住空間の提供など様々な任務がこなせたことであろう。
 自衛隊の国際活動において16DDHの役割は対潜任務や哨戒任務だけではない。
 16DDHはヘリ空母でありヘリ空母は日本に不要などというのは馬鹿げた話だ。
 21世紀はマルチロール兵器の時代。16DDHは予測される実際の活動内容を考えればヘリコプター揚陸母艦型多目的強襲揚陸艦。わが国の事情で16DDHという名称になっているだけに過ぎぬ。

付記:
 16DDHは戦術思想において島嶼奪還に必要な兵器でもある。
 我が国には数多の離島がある。その全てに侵攻に備えた防衛力を配備するのは不可能というもの。
 いきおい敵に侵攻された際は島嶼奪還作戦が必要となる。
 航空兵力は、固定翼機は本土からでもまにあうだろうが、回転翼機はそうはいかない。
 ヘリコプター揚陸と敵の地上兵力を排除する対地戦闘ヘリの運搬は島嶼奪還作戦を有利に進めるのに重要な要素だ。
 兵器には実際にいかに用いるかという戦術思想や戦略思想があるもの。それを汲まずして一方的に非難するは不当というもの。
 片手片足を縛られ口は塞がれている自衛隊。それでも有事の際は命懸けで戦わねばならぬのが彼らだ。せめて、無駄死にしないで済むように装備だけは必要で信頼できるものを。


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