罪を憎んで人を憎まず
「罪を憎んで人を憎まず」
拙者はこの言葉の本質は、犯罪において犯罪者ではなく「犯罪者がその犯罪に至った境遇」を憎み、その境遇自体を作り変えることにあると思う。
例えば、拙者の身内が人間の屑のような輩に殺されたとしよう。
その者を見つけ出し斬ることができれば、拙者の復讐心は満たされるかもしれぬ。
だが、社会がそのような人間の屑を生み出すような環境である限り、同じような犯罪の被害に遭うものは絶えまい。
つまり、こういうことだ。
そういう人間の屑のような輩が再生産されるような社会そのものを改変せぬ限り、同じような悲劇が繰り返されるであろうということだ。
犯罪に対して刑罰は必要だ。
だが、感情にしたがって犯罪者を糾弾するだけでは駄目なのだ。
人の行動はその境遇によって大きく左右される。見方を変えれば犯罪者もその境遇の被害者といえよう。(だからといって犯罪者の罪が消えるわけではない。米国の「弁護士が陪審員を感情論で誘導して罪に対する罰を軽くしてしまうような裁判」は本質的に間違っていると拙者は思う)
行動に至った本質を見抜き、それを是正せぬ限り犯罪は無くならぬ。
同じような犯罪を繰り返さぬためには、その原因自体を解決せねばならぬということだ。
さて、昨今の犯罪であるが、その傾向として暴力が女性、子供、老人といった弱者に向けられているという本質に目を向けるべきではなかろうか。
それを見て拙者が憂うのは、「弱者を虐げることは恥ずべきこと」という認識そのものが崩壊しつつあるのではないかということだ。
捕まったものを厳罰をもって裁けば、被害者や大衆の復讐心は満たされるかもしれぬ。
だが、世の中がそういう「弱いものに暴力をふるうことを恥と思わぬ輩」「弱いものから奪い取るのは当たり前と思っている輩」を生産しつづける限り、同じような犯罪は絶えぬであろう。
世の中は変わってしまった。今の世には「自分さえよければいい」と考える人間があまりにも多すぎる。
我々は我々の社会のありようそのものを見つめなおすべきなのではなかろうか。
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